「死」という絶対的支配者

how to think

こんばんは。厨二感満載タイトルで本日お届けしていきます。今日のテーマは私ちむという人間の生き方?というかいつも何をするにしてもつきまとっている「死」という概念についてダラダラっと書いていきたいと思います。

「死」について考えたことがある人はいますか?

僕のことをよく知る人はもうご存知かもしれませんが、僕は小1の頃に僕のことを初孫として大変可愛がってくれた母方の祖母が亡くなりました。享年59歳だったはず。かれこれ20数年前ということになりますが、今どきそんな早く亡くなるなんて思いもしないですよね。
そして小3の頃に父方の祖母が急性くも膜下出血で夜眠ったまま亡くなりました。
そして、たしかその年か翌年、当時飼っていたセキセイインコが心臓病で亡くなります。

死ってすごいんですよ、なにもないんです。生きてたものが死ぬってすごい喪失感と後悔となんかぐわーーーーって。涙が枯れるっていうと思いますが、実の親を亡くした両親の気持ちになるともっと涙が止まらなくなるそんな死の連鎖でした。

この死の連鎖からか、小学生にしてはやたらと死生観?を持った小学生になってしまい、明日自分の母親が死ぬかもしれない、明日自分が死ぬかもしれない、今最愛のなにかを失うかもしれない、そんな不安がいつも心に住むようになりました。

死んだものに対する弔辞で気づいたこと

祖母たちのお葬式で喪主が話す言葉、親族たちが嘆く悲しみ。自身のペットが死んだときに感じたやりきれなさ。そんな死を直面して気づいたことは「なんでこんなに後悔がたくさん残るんだろう」ということ。みんな嘆いてました。それから僕は後悔という言葉が大嫌いです。後に悔いるくらいなら未来を削ってでも今をもっと大切にすれば良いのにって。だから僕はいつも今死んでも良いように、明日死んでも良いように精一杯今を生きなきゃと思ってます。
だからかはわかりませんが自分の人生の「時間」という有限なものをどうすればもっと効率よく生きられるか、そんなことばかり考えるようになりました。最近よくいうタイパというやつですね。だからこそやらない悔いよりやる後悔だし、やる後悔も後悔なんかにしない次へのステップなんだと言い聞かせているうちに意味不明なほどポジティブな思考方法を身に着けてきた気がしています。厨二病っぽくいうならば陰あってこそ光があるみたいな話なのかもしれません(多分違う)

でも後悔なくなんてきっと無理

今一生懸命生きてますが、後悔しない人生ってできるんでしょうか?
―否、人間という生物の強欲っぷりではそれは無理だと思います。

マズローの欲求5段階説なるものがあります。「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」なる5つの欲求です。これらはピラミッド構造になっており、左を最下層に右へ行くにつれて上層となっています。
で、最後の欲求が「自己実現の欲求」なんですが、これってゴールなくないですか?wさっきも言いましたが人って超強欲な生物で、どんどん次を求めるんですよね。宇宙に行くことを夢見た人類はいつしか宇宙に住むことを、宇宙に遊びに行く、旅行に行くことを考えているわけです。欲求の深さを感じませんか。

だから僕がたどり着いた答えは後悔なくなんてきっと無理。また次を考えてしまうはず。そしたらそれができなかったときになんでこうしなかったんだろうっておもうんでしょう。だからきっと人間である以上、死と後悔はセットなんだと思っています。

じゃあなに?どうせ何したって後悔するから諦めろってこと?というのも違うと思っています。ちゃんとセーブポイントつくって、自分は何ができたかって、人にどれだけのことをできたかって感じながら生きることが一つの解決策です。達成感をセットにしようということです。

人生という物語は残念なことに必ず終わりが来てしまいますが、記憶のセーブポイントがあるだけで、達成感に包まれて死を迎えられるのかなと思っています。ドラクエも終わりは悲しいですが、エンドロールが終わると悲しさもあるけど、なんかすごい達成感ありませんか?あれですあれ。人生というRPGのエンドロールを作れるようにしときましょう。だから僕はいろんなことをいつでも思い出せるように写真に撮ったり、言葉にしたり、恥ずかしいこともたくさんあるけどそれも含めてエンドロールの1パートに必要だと思っています。

ばーーーーって書きなぐったらとりとめもない文章になってしまいましたが、言いたいことは2つ。

①いつ死んでもいいように無駄なく生きる!
②どうせ後悔は死とセットだからなくすじゃなくて、達成感というポジティブな気持ちを増やす!=人生エンドロール用のものを残す!

以上です!!!チャンチャン。

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