親ガチャって言葉どう思う?

self-argument

こんばんは。ちむです。ちょっと重そうな言葉だけど今日は「親ガチャ」なるものについて自論というほどでもないけど、思っていることを書きたいなと思います。正解はないと思っているので誰かがこのテーマをちょっとでも考えるきっかけになればと思います。

ある派・ない派

まず「親ガチャ」って言葉があるのかないのかですよね。僕は「ある」と思っています。間違いなく、子は親を選べないし、逆に言うと親は子を選べない。そういう観点から言えば昨今のソシャゲ界隈にはびこる「ガチャ」と言えるかなぁと。元々はガシャポンから来ているのかな?
まぁランダムに出てくるものだからって意味合いで親を選べない→ガチャで出てきたものを受け入れるしかないという流れでこの言葉が生まれたのかな。

ただ、僕はこの「親ガチャ」という言葉があるのはわかるけど、そんなことどうでもよくない?と思っていて、当たり前のことを嘆いているだけのような気がして、むず痒いというのが感想です。

「親ガチャ」は自然の摂理のレベル?

例えば、水が美味しいかどうかという話をするときに、
「いやいや当たり前に味がないんだから美味しくなんかないでしょ」
「喉乾いてるときって本当に水が美味しいんだよね」
という解釈ができると思っています。上は日常的な観点からの水の評価、下はある部分的な観点からの評価。
別にどっちも間違ってなくて、親ガチャって同じような話なのかなって思っています。
無味無臭は水の特性ではあるが、人体には無害ではある。それどころか必要な要素であり、身体として必要な時は美味しいとさえ感じることができるものです。そんな水に対していつも美味しいジュースであれというのは高望みしすぎなのではと。

たぶん、僕は「親ガチャ」は絶対的指標で見ると俗に言うSRくらいだと思います。親によって収入や教育が異なるのは当たり前ですが、僕は平々凡々な一般的な家庭(排出率30%くらいかな)で育てたと思います。

本当に自分の人生が100%親のせいで不幸だと言える人はいるのでしょうか。僕はNoだと思っています。僕が貧乏だったらそんなこと言えないのではないか、なにか不自由があればきっとそんなこと思えないのではないか。
そうかも知れないです。ただ、幸せの定義ってレアリティによって差があると思っていて、それでOKだと思っています。要するに「相対性」が大事なんだろうなということですね。

幸せを絶対評価すると親ガチャは確かに重要になるかも…?

ソシャゲだと確かにURやLRと言われるようなレアリティのものが重宝されがちですが、幸い我々の人生はソシャゲではないので、レアリティは定義しづらいです。絶対性が重要ではないということです。だから常に”相対的”に幸せを定義すればいいのかなと。

僕は平々凡々な家庭だったので、高級レストランでの食事は非日常だし、ちょっとした固まったお金が入ってきたりすることもすごく幸せを感じます。裕福な家庭に生まれた人から見たら、「そんなことに幸せを感じるなんて不幸だね。親ガチャ失敗だな」と思えるのかもしれないです。
でも自分の「幸せ」を定義するのは自分自身であり、他者の幸せの定義を気にしても時間の無駄だなぁと思います。これが僕が考える「相対的な幸せの定義」であり、これを持ってると親ガチャって言葉は無意味かなぁって。

今の自分にとって幸せと感じることが何か、それを追求して、幸せを積み重ねていけば、こんな親じゃなければ…なんてことは思わないんじゃないかとさえ思います。
むしろこんな幸せを感じられるのってある意味この親だったおかげみたいな解釈まで出来たら10000000000点だと感じてます。
親ガチャが…と思う方は不変の事実を恨むより、変化する未来を幸せにしてみませんか。どうせみんな人間はいつかは死ぬので、どうしようもないこと(=親が誰なのか)に思いを馳せても仕方ないかなと。

ちむお得意の、「都合よく解釈する」ってやつですかね。まぁどこまでいっても持論なのでそういう考え方もあるんだなぁくらいで読んでくれていたら嬉しいです。読んでいただいてありがとうございました〜。

それではまた!あでゅ。

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